トリニータの歴史を彩った選手たちの今① 高松大樹(大分市議会議員)

2020/04/04
  • 大分トリニータ

 1994年4月の始動から四半世紀余り。大分トリニータの歴史をひも解くと、「最短JFL昇格」、「最終戦の悲劇」、「J1昇格」、「万年残留争い」、「ナビスコカップ優勝」、「経営危機」、「J2・J3降格」、「2段階昇格」など、いくつものキーワードが浮かんでくる。その光と影のなかで歴史を彩った個性豊かな選手たち。彼らの“今”を追った。第1回は高松大樹。今なおファン、サポーターに愛されるミスタートリニータが栄光と挫折の歴史を語ってくれた。

 

栄光と挫折の歴史

 

Q:ミスタートリニータとして数々の記憶に残るゴールを決めましたが、印象に残っている試合は?

 やはりヤマザキナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)の決勝戦です。九州で優勝したチームはなかったし、地方クラブでもタイトルを取れることを証明した。夢や希望を与えることができたし、トリニータの歴史をつくった自負はあります。けがで決勝戦の2、3週間前に復帰して、本調子ではなかったので、まさか先発で出場するとは思っていなかった。先制点を決めたときのスタジアムの爆発したような声援は忘れられません。この年(2008年)はシーズンを通してチームの調子は良かった。クラブ最高のリーグ戦4位で終わることができました。結果が出ていたこともありますが、日本人選手と外国人選手の壁がなく、試合をつくれるベテランと勢いのある若手がかみ合っていました。

 

Q:大分で16年間プレーし、歓喜と悲哀も味わったと思います。

 良かったときなんて一瞬、悪いときしかなかった。プロ入りして2年間は最終節まで昇格争いをしながらギリギリのところで逃したし、J1に上がってからは常に残留争いに巻き込まれていました。常に切羽詰まったシーズンを過ごして、おかげでメンタルは強くなりました。ただ、代償も大きかった。残留に向けて緊迫した状況で、けがをしていても無理して試合に出ていたので体が壊れました。無理せず完治するまで休んでいたら、もっと長く現役を続けられていたかもしれない。残念な思いはあるけど、どのシーズンも常に全力でプレーでしたので悔いはないです。

 

Q:クラブの経営危機に直面し、J2降格を経験しました。

 2009年のJ2降格は本当に辛かったです。これまで先輩方が苦労してJ1に昇格したことを知っていたし、本当に申し訳なかった。だから降格した試合の直後に翌年もチームに残留することを宣言したのですが、その直後にクラブに莫大な負債があることが発覚した。正直、もっと早く選手に知らせてくれよと思いました。自分にはチームに残る選択肢しかなかったし、主力選手が大量に移籍していくのを見ていることしかできず悔しかったです。

 

記憶に残る数々のゴールを決めた高松大樹

 

  • LINEで送る

関連記事

ページトップへ