監督の哲学② 「信念を貫く」東九州龍谷高校バレーボール部・竹内誠二監督

2020/03/14
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 監督インタビュー企画の第2回は東九州龍谷高校バレーボール部の竹内誠二監督。自身の現役時代から指導者に至るまでの過去を振り返り、現在の指導法、今後のビジョンについて語った。昨年4月にU―20などの年代別女子日本代表の監督に就いた相原昇前監督から引き継ぎ、就任1年目で春の高校バレーで日本一を成し遂げた。前任者と同じく「24時間、365日バレーのことを考えても苦にならない」と自他ともに認めるバレー中毒だ。

 

ブレずに愚直に続ける

 

 監督に就任した当初に質問したことがある。―どのチームでも必ずうまくいかなくなる時期があると思います。そういった際に監督はどうやって立て直しますか?

 返ってきた答えはいたってシンプルだった。「これまで歴代の監督が築いた東龍(東九州龍谷)のバレーがある。それをやり続けるしかないでしょうね」。どんな苦境に陥っても、足元を見据えて継続していくのが竹内誠二のスタイルなのだろう。その哲学は日本一になった今でも、まったく変わらない。

 

 チームのカラーを決する重要な存在である監督の交代を機に「自分の色」を示す監督は多いが、竹内はそれをしない。「うまくいっているのだから変える必要はない。勝ったことがない人が自己流で指導しても勝てるわけがない」と身の丈を心得ている。東龍は常勝チームの礎を築いた大木正彦元監督、代名詞となった「高速コンビバレー」を構築した相原前監督の型がある。「まずはこれまでの指導を忠実に守り、基本を身につける時期だと思っている。そこから自分なりに磨き、その時代に合わせた指導ができればいいと思っている」と話す。

 

 バレーボール一家に生まれた竹内は小学生のころから父がコーチ、母が選手として練習するママさんバレーチームで遊びながら競技を学んだ。身長が低かった竹内は当時から試合をコントロールするセッターに憧れた。「パスは小学校のころからうまかった」と自負するとおり、中学でバレーボール部に入部するとすぐにレギュラーの座を射止める。3年時には県選抜のキャプテンとしてJOCジュニアオリンピックカップに出場した。また、両親が所属するチームが日本一になったことを目の当たりにし、日本一を目指すようになる。高校は強豪校の一角だった地元の津久見に入学したが、憧れの春の高校バレーには一歩及ばなかった。「日本一への思いはますます強くなった」と幾つかの推薦を断り、同年代のトップクラスが集まる日本体育大学に一般入試で進学する。

 

 大学時代は9人制のレシーバーとして活躍し、卒業後は東京のクラブチームで現役を続ける。2年間プレーし、全国2位となったところで2008年の大分国体に向けて強化するチームに呼ばれ、臨時講師として高校生の指導をしながら現役を続けた。大分国体後は指導者に専任し、今では想像し難い“鬼の形相”で猛練習し、弱小チームを鍛え上げた。そのアグレッシブな姿勢、バレーボール愛に目をつけたのが大学の先輩に当たる相原だった。「一緒に日本一を目指さないか」と誘われ、15年に東龍に赴任し、コーチとしてチームを支えた。

 

監督1年目で日本一を成し遂げた竹内誠二監督

 

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