大分上野丘高校ラグビー部 佐藤武信(3年) file.827
ラグビー
TURNING POINT 〜つきぬけた瞬間〜 #02 「今いる場所で最善を尽くす」(城彰・キヤノンイーグルス)
競技人生におけるターニングポイントに焦点を当てた連載。第2回はラグビートップリーグのキヤノンイーグルス城彰。高校、大学、社会人と常に所属したチームでレギュラーの座をつかみ、主力として試合に出続ける。だが、それでも彼は言う。「まだまだ満足できないんだ」と。
ラグビーに出会えたことが全て
ボールのあるところに城彰あり。体が大きく、タックルも強く、アタックにも存在感を発揮する。大分舞鶴高校時代から変わらぬスタイルだ。凱旋試合となった9月24日のラグビートップリーグ、ヤマハ発動機ジュビロ戦は、故障を抱えたこともあり前半で退いたが存在感を発揮した。「試合には負けて悔しいが、ワールドカップ会場となる地元のスタジアムで試合ができて良かった」と笑みを浮かべ、会場を去った。
城がはじめて楕円球を手にしたのは小学4年生の時。「父親がラグビーをさせたかったみたいで、弟が先にはじめ僕もあとからラグビーを始めた」。周りの友だちがサッカーやバスケット、野球をしていたため「そんなにラグビーは好きではなかった」が、「今思えば自分の体に合っていたし、生かせたスポーツだった」と振り返る。幼稚園の時にすでに体重は60kgあり、小学校を卒業する頃には100kgあったという少年は、相手を吹き飛ばしながらトライを量産した。「ラグビーのおかげで今につながっている。今の自分があるのはラグビーのおかげ」と話す。ラグビーとの出会いが城のターニングポイントだった。
中学の頃はサッカー部と掛け持ちしながらラグビーをした。当時のポジションはセンター。「ボールを持って走れるし、タックルもできるし、キックもした。ラグビーの要素が全部入っていて楽しかった。その頃は駆け引きなんか分からないから、とにかくボールを持ったら前に走る。体が大きかったから相手を倒しながら進む…。とにかく楽しかった」。城の活躍は全国屈指の強豪校・大分舞鶴高校の指導陣の目に留まり、迷うことなく進路先となった。受験勉強にも力が入り、憧れの高校へ入学する。
とことんやり抜けば道は拓ける
城が入学した前年に全国高校ラグビー大会で準優勝した大分舞鶴高校。強豪校のレベルは高く、練習は生半可ではなかった。今も恩師と慕う堀尾大輔監督の指導は厳しく、新入部員はどんどん減っていった。
「練習は半端なくきつかった。そんな中で堀尾先生から基本を徹底的に叩き込まれた。両手でしっかりボールを持つとか、タックルは相手の中心に入るとか。でも、それがその後の僕の軸になった。好プレーというのは基本プレーの連続。当たり前のことを当たり前にできないと一流選手になれない。それはラグビーだけじゃなく、人を裏切らないとか、待ち合わせに遅れないといった人間形成もしっかり教えてもらった」
城の才能は早速開花する。1年からプロップのポジションを奪い、高校ラガーマンの憧れの花園のピッチに3年間立ち続けた。3年時には高校日本代表にも選ばれ、その経験が彼をさらにラグビーへ傾倒させることになる。
進学した明治大学でもレギュラーとして活躍。もちろん北島忠治監督の薫陶も受けた。「僕が入った頃は北島先生はもう直接指導はされてなかったけど、先生の『前へ』という言葉は響いた。もちろんラグビーにおいて前に進めということもあるが、人生につまずいたときも逃げずに前を向けた。もともと僕はポジティブな人間だけど下を向くことはなくなった」
大学を卒業して入社したキヤノンは、当時トップリーグのひとつ下のカテゴリー(トップイーストリーグ)に属していたが、「キヤノンと一緒に成長したい」と前向きだった。チームとともに勝てるために何ができるのか、何が必要なのかを試行錯誤した。努力の甲斐あり、翌年にトップリーグに昇格した。「とことんやっていれば誰かが見てくれている。中学の頃からそうだった。節目でいろんな方に声を掛けてもらった。高校も大学も誘ってもらい、キヤノンの時もそう。今いる場所で最善を尽くす。そうすれば道は拓ける」。
現在、トップリーグ6シーズン目のキヤノンは5戦未勝利と苦しんでいる。「今は我慢のとき。勝てばチームも個人としてもいい方向に向かっていく。献身的にプレーを続ければいい」とニヤリと笑った。迷いはない。黙々とブレイクポイントに集散を繰り返し、地味ながらラックを固め、モールを押し込む。玄人でも分かりにくい仕事人ぶりを発揮してピッチに立つ。
(柚野真也)