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【指導者の肖像〜高校スポーツを支える魂〜】 原点が育てた覚悟のバスケット 明豊高校バスケットボール部監督・杉山真裕実(前編) 【大分県】

【指導者の肖像〜高校スポーツを支える魂〜】 原点が育てた覚悟のバスケット 明豊高校バスケットボール部監督・杉山真裕実(前編) 【大分県】

 3年連続でウインターカップ出場を果たした明豊高校女子バスケットボール部。その指揮を執る杉山真裕実は、大分で育ち、実業団ユニチカで7年間プレーしたのち地元に戻って指導者となった。「強さ」を求め続けた選手時代の苦闘と、周囲の“覚悟”に支えられた歩みは、現在の指導哲学へとつながっている。前編では、杉山監督の原点をたどり、その魂の源を探る。

「バスケは中1から」スポーツ何でも屋だった幼少期

 杉山がバスケットボールを始めたのは中学1年。決して早いスタートではない。むしろ小学生時代は、さまざまな競技を渡り歩く「スポーツ何でも屋」だった。小学2年までは体操教室に通い、マット運動で転がり、夏になるとプールで泳ぐ。近所の友達に誘われれば、リンクに立ってスケートもした。すべては「近所づきあいの延長」であり、「これだけは絶対にやりたい」と思う一本の競技には出合っていなかったが、体を動かすことだけは誰よりも好きだった。

 父は野球経験者で、キャッチボールが日常にあった。男の子たちに混じってドッジボールをすれば、いつも本気で投げ合った。本人も「運動神経はかなりいいほうだったと思う」と笑う。足も速く、さっぱりした性格。友達の輪に入るとき、性別の境界線など意識したことはなかった。

 運動神経には自信があったが、強くやりたい競技はなかった。だからこそ、中学での「バスケとの出合い」は偶然である。「近所の2つ上のお姉ちゃんが顧問に背の高い子がいると伝えた」ことから、杉山は自然とバスケット部へ導かれた。

 中学入学後、「バスケ、バスケ」と周りから勧められるようになり、流れに背中を押されるようにバスケット部の門を叩いた。とはいえ、最初から順風満帆というわけではない。ルールもよくわからないまま応援席で声を出していたある日、突然監督に呼ばれ、そのままコートに送り出された。結果はトラベリングの連発。ほろ苦いデビューである。それでも持ち前のフィジカルと強気な性格は光り、ある人物が目を留めた。のちに恩師となる大分女子高校(現・大分西高)の三重野哲郎監督である。

 中学2年の夏休みから、杉山は「預けられる」形で大分女子高の練習に参加することになる。バスケットボールを始めてまだ1年余りの中学生が、いきなり高校の体育館へ。もう一人来るはずだった別の中学生は結局姿を見せず、杉山はたった一人で高校生の輪の中に放り込まれた。

 初日は母が付き添ったが、翌日からは自転車で一人で通った。「怖かった記憶があまりないんですよね。気づいたら一緒にシュート練習していた」。未知の環境でも物おじしない大胆さ。これが後の指導者人生にもつながっていく。

 中学時代の成績は決して華々しくない。大分市総体を制したものの、県大会は2回戦敗退。全国大会や九州大会の経験もないまま、3年間の中学生活は過ぎていった。

「桜木花道タイプ」インサイドでゴリゴリ生きた高校時代

 進路選択のとき、杉山は最後まで葛藤する。候補は2つ。文武両道の大分舞鶴高校か、当時の県内女子バスケット界をリードしていた大分女子高校か。そんな杉山の考えを一変させたのが、県高校新人大会の一戦である。大分舞鶴と大分女子が対戦すると聞き、観戦に出かけた。結果は大分女子が100点ゲームのダブルスコアでの圧勝だった。

 その瞬間、気持ちは変わった。「強いところでバスケットがしたい」という欲求のほうが勝ったのである。これが彼女の競技人生を決定づけた最初の分岐点である。

 高校時代、杉山はインターハイに2度出場している。高校2年と3年で連続出場。高校2年の北海道インターハイは、大分女子高にとって10年ぶりの大舞台だった。しかし結果は2年とも1回戦敗退。「やっぱり大分はまだその程度のレベルだった」と、当時の彼女は冷静に受け止めている。

 プレースタイルは、自らも「スラムダンクの桜木花道みたいだった」と笑う。外角シュートは決して得意ではない。ハイポストから1対1を仕掛けるか、ゴール下でもつれ合いながらオフェンスリバウンドを奪い、そのままシュートまで持ち込む。狭いスペースに飛び込んでパスをもらい、体をぶつけ合いながら得点をねじ込む。そんなゴリゴリの“ガツガツ系”プレーヤーだった。

 当時は今のように動画サイトもSNSもない。情報の窓口は、月刊バスケットボール誌と、正月の「オールジャパン」中継くらいである。テレビの前で録画ボタンを押し、ビデオテープが擦り切れるほど同じ試合を繰り返し見る。全国各地のスター選手の存在を、写真で想像するしかなかった。遠征で全国を飛び回るような環境でもなく、「どこそこにすごい選手がいる」という噂話さえ入ってこない。

 だからこそ、対戦相手やライバルの情報に振り回されることもなかった。ひたすら自分たちの練習を信じ、毎日のメニューをこなす。その素朴さは、情報過多の現代とは対照的である。唯一の「外の世界」は、地元にあった実業団チーム・トキハインダストリーが、週に一度、大分女子高に練習に来てくれることだった。OGたちのチームを相手にゲームをする時間は、杉山にとって、自分の現在地を知る貴重なものだったに違いない。

高校卒業後は「バスケの難しさ」に苦闘

 卒業後は大阪の樟蔭東女子短期大学へ進学する。実業団の富士通からの誘いもあった。地方出身の高校生にとって、実業団から声がかかることは夢のような出来事だった。しかし杉山は冷静だった。オンサイドプレーヤーとしてやってきた自分の身長では、実業団ではガードへのコンバートがほぼ確実である。「だったら、短大の2年間で外のポジションの勉強をしてからでも遅くない」。そう考えた杉山は、両親に頼み込んで樟蔭東行きを選ぶ。

 待っていたのは、“パスバスケ”の世界だった。基本的にドリブルは禁止に近く、パスとカッティングで組み立てるスタイル。専門用語も、戦術の約束事も、すべてが初めて触れるものばかりである。家政科での授業では裁縫に苦戦し、コートに出れば頭で理解できない戦術に戸惑う。インカレでは2年時に5位に食い込んだものの、日々の生活は「勉強もバスケも、とにかく辛かった2年間」だった。

 それでも、この時期に叩き込まれた「ドリブルに頼らないバスケット」と、徹底したオフ・ザ・ボールの動きへのこだわりは、のちの指導者としての杉山の根っこを形づくっていく。

 短大卒業後、杉山は実業団ユニチカへ入社。女子日本リーグ77連覇を誇る名門だが、彼女が入った時期は低迷期で、すでに往年の輝きを失っていた。入社当初のユニチカは2部で、そこから一度3部に落ちる。そこで底を打ち、ようやくチームが再浮上を始めた頃、杉山はコートの上であらゆる役割を経験することになる。
 本来はリバウンドに強いセンター、あるいはパワーフォワード向きの選手である。ところが、当時の監督はあえて「ガードをやれ」と命じた。

 結果は散々だった。パスがずれれば、「まだミスにもなっていない」のに工場の周りを走らされる。まさに昭和のしごきである。翌日も同じことを言われるだろうと予想した杉山は、あらかじめランニングシューズの中に小銭を忍ばせ、途中の自販機でジュースを買って一息ついてから戻る、というしたたかさも見せた。

 そんな日々を重ねながら、ガード、フォワード、センターと「全ポジションを経験できたのは財産だった」。戦術理解も視野も広がり、後に選手へ説明する力につながった。

 転機はユニチカ2年目。キャプテンが引退し、その枠をめぐって先輩2人、同期1人、杉山の4人で争うことになった。ライバル3人はいずれも3ポイントシューター。得点力では分が悪い。そこで杉山は、あえてディフェンスで勝負する道を選んだ。

 1年目のある日、3時間連続でディフェンス練習をしたあと、監督が「お前、ディフェンスよかった」と声をかけた。その一言で価値観が変わった。以降、バスケットボールの本を読み漁り、先輩に指導を請い、守備でスタメンの座を奪った。

 その過程で出会った四つ上のキャプテンも、杉山のバスケット観に大きな影響を残した。寮の部屋では優しいお姉さんだが、体育館に一歩出ると、一切の甘さを排したキャプテンに戻る。コートでは厳しく叱り、部屋に戻ると「なぜ怒ったのか」「あのプレーで何が足りなかったのか」を丁寧に説明する。オンとオフの切り替え、チームのために自分をどう律するか。その姿は、のちに杉山が指導者として選手に向き合う際の、一つのモデルケースになっている。

けがとの戦い、母の一言で続けた最後の1年

 華やかなキャリアの陰には、常に怪我との戦いがあった。足首と膝の半月板。調子が上がってきたと思った頃に痛め、1カ月半から2カ月の離脱を繰り返す実業団4年目の終わり、ついに「もう続けられない」と引退を考えた。そんなとき、監督から「もう1年残ってくれ」と慰留された。悩み抜いた末に相談した相手は母だった。

 返ってきた言葉は、今も忘れられない。「このテーブルの4本の足のうち、あんたがその1本なんじゃないの?その1本がないと机は倒れるでしょ。あんたはその支えになるべきなんじゃないの」。普段はあまり口を出さない母が、珍しく真正面から娘の背中を押した。
 その一言で、杉山の迷いは消える。「まだこのチームでやるべきことがある」。最後の1年は痛みと付き合いながらシーズンを戦い抜いた。
 そしてその年、ユニチカはついに1部昇格を決める。3部まで落ちた古豪を、再びトップリーグに戻す一助となって、杉山はプレーヤーとしてのひとつの区切りを迎えた。

 地方・大分から実業団へ――当時としては「エリートコース」とも見える道のりである。それでも本人は、自分だけの力とは決して考えない。父と母、監督や先輩たち。多くの支えに押し上げられ、「テーブルの4本脚の1本」として役割を果たした5年間だった。

 現役引退後も2年間ユニチカに残り、トレーナー兼任選手として「選手と指導陣の間をつなぐ役」を務めた。7年間のユニチカ生活を終えたあと、杉山は父から「恩返しをしなさい」と言われて大分へ戻る。
 「あなた一人の力でそんなところに行けたわけじゃない。実業団で経験したことを大分の人たちに伝えることが、恩返しになるんじゃないか」。その言葉に背中を押され、地元のクラブチーム・大分クラブで働きながらプレーを続けることになった。
 ユニチカ時代に学んだことを、父の助言でノートに書き留めていた杉山は、そのメモをもとにクラブの仲間たちにアドバイスを送るようになる。「こう動いたほうがいい」「このタイミングで打ったほうがいい」。シュートに自信を持てない後輩には、「シュート入らんのに打っていいの?」と聞かれ、「打たんと入らんやん」と笑い飛ばす。そんな会話の積み重ねから、「教えてもらったものを自分なりの言葉で返す」という感覚が、自然と身についていった。

杉山真裕実を支える3つの信念
強さは覚悟から始まる。
環境に飛び込み、自分を変える覚悟こそ成長の第一歩。
選手にも常に「逃げずに向き合う姿勢」を求める。
土台をつくるのは当たり前の徹底。
走る、守る、リバウンドする――泥くさい部分を磨くことが
勝敗を左右する。「当たり前」をやり抜く選手が強くなる。
支えてくれる人への感謝を忘れない。
家族、仲間、コーチ…自分一人ではコートに立てない。
その想いをプレーで返すことが、バスケットの本質である。

「覚悟はあるんか」――父の言葉で監督への道を決断

 とはいえ、この時点で杉山には「指導者として生きていく」という明確なビジョンはなかった。大分クラブでプレーを続けながら、大分市役所の臨時職員として働き、2008年の大分国体では成年女子チームのコーチも務めた。プレーと仕事、そしてコーチ業。忙しくも充実した毎日だった。

 転機が訪れたのは、その大分国体が終わるタイミングである。前任の指導者が定年退職することになり、明豊高校女子バスケットボール部の後任として、杉山に白羽の矢が立ったのだ。
 国体の仕事も一区切りを迎え、市役所での任期も終わりに近づいていた。キャリアの岐路に立つタイミングで、「明豊に来ないか」という話が舞い込む。偶然と呼ぶにはできすぎた巡り合わせである。人生の岐路に立った杉山は、いつものように父に相談する。

 返ってきたのは厳しい言葉だった。「教師になるということは、生徒の人生を預かる仕事だ。寮も生活も含めて面倒を見る。本当に覚悟はあるんか」。

 胸に刺さった。高校、短大、実業団。自分がどれほど多くの大人たちの覚悟に支えられてきたか。その記憶が次々とよみがえる。「教えてもらったことを返したい」。大学ノートに必死に書き留めたメモ、大分クラブでのアドバイス、国体で見た選手の成長。それらが一本の線でつながった。

 最後に父は言った。「覚悟を持ってやるなら、やりなさい」。その一言をきっかけに、杉山は腹をくくる。自分のプライベートは間違いなく削られる。それでも、これまでの経験を注ぎ込む価値のある仕事だと信じて、明豊の指揮官になる決断を下した。

 2010年、杉山は明豊高校女子バスケットボール部の監督に就任した。

 後編では、杉山が明豊で築いてきた指導哲学と、勝つだけではない“成長のバスケット”をどう形づくってきたのか。熱の源に迫る。

■プロフィール■
杉山真裕実(すぎやま・まゆみ)
1970年8月13日生まれ、大分県大分市出身。中学からバスケットボールを始め、大分女子高、樟蔭東短大を経て実業団ユニチカで7年間プレー。全ポジションを経験し1部昇格に貢献。引退後に帰郷し、2010年より明豊高校女子バスケットボール部監督を務める。

全国大会出場歴
インターハイ(2021、2024、2025)
ウインターカップ(2015、2023〜2025)

(柚野真也)

大会結果

2023年度