国スポ 期待高まるチーム大分 今年も千点以上目指す 【大分県】
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オオイタのオリンピアン② 小笠原順子(シドニーオリンピック・競泳)
2000年シドニーオリンピックの競泳平泳ぎに出場。大会直前に腰を痛め、満身創痍で臨んだ200㍍準決勝で涙を飲んだが、確かな爪痕を残した小笠原順子さん(旧姓・磯田)。「オリンピックでは泳げる喜びを感じ、精一杯やれることをやった。飛び込み台に立てたのが奇跡のようなもの。結果を出せる状態ではなかったが、やり切った。観客の数が半端なく、地鳴りのような声援で会場が揺れていたことを覚えている」と述懐する。
物心つく前から水泳をはじめ、小学4年で日本一になってから常に第一線で競技を続けた。最初のピークは高校1年のときだった。アトランタオリンピックの有望株として、その年は周囲のプレッシャーと戦いながら、練習に時間を費やした。ただ、「自分の気持ちが追いつけなかった。選考会のことを全く覚えていない。地に足がついていなかったんだと思う」と力を出し切れずに終わった。燃え尽き、4年後のオリンピックを目指すイメージができなかった。転機となったのは高校の部活動での練習だった。水泳をはじめてからずっとクラブチームでの活動を優先していたが、部活動の練習に参加するようになってチーム全体で行動することが多く、個人競技でありながらチームを意識するようになった。全国高校総合体育大会(インターハイ)で初めてリレー種目に出て準優勝に終わったが、「すがすがしさがあった。望む結果は出なかったけど、周りの選手と協力し、一生懸命頑張ることを学んだ」。
シドニーオリンピックに出場した小笠原順子
高校卒業後の進路も大学も自分で調べ、選んだ。「4年前と同じことをしていてもオリンピックの出場は難しいと思った」と、練習環境を変え、一人暮らしをはじめた。最初の一年は環境の変化に戸惑い、結果も出なかった。中学1年の頃から選ばれ続けた日本代表から外れる挫折も味わったが、矢印を自分に向けた。「全ては自分の責任。課題を見つけ、足りないことを突き詰めた。レースの戦略も自分で考え、やれることは全てやった」と徐々に調子を上げ、大学2年のオリンピック選考会では4年前の雪辱を見事に晴らし、シドニーの出場権を得た。しかし、不運が襲ったのはオリンピック直前のこと。腰を痛め、寝たきりの状態が続いた。情報を聞きつけたトライアスロンチームのドクターをはじめ、多くの人が競技の垣根を越えて治療に尽力。100㍍は棄権を余儀なくされたが200㍍に出場し、16位で終えた。
小笠原さんは今でもそうだが、「オリンピックに出たというのは肩書きのひとつでしかない」と自らオリンピアンであることを明かさない。オリンピックを終えてから卒業するまで水泳を続けたが未練はなかった。「やり切ったという思いと、これから先の人生の方が長いという気持ちが強かった」と、周囲の学生と同じように就職活動をして、大手飲料水メーカーに入社した。「価値観が広がった。全てが新鮮で、学ぶ楽しさを知った」と仕事にのめり込み、社会価値と企業価値を両立させるCSV活動によるブランド戦略や、イベントの企画運営を担当した。充実した日々を送ったが、子どもの成長とともに田舎への移住を考えるようになり、第3のステージに突入する。今は竹田に居を構え、起業し、地域活性化や子育て支援に関わる活動を勢力的に続けている。今後の目標は馬セラピーを取り入れた児童発達支援や放課後デイサービス、映画制作など幅広い。オリンピアンというよりビジネスウーマン。頂いた名刺に、もちろんオリンピアンの肩書きはなかった。
競技引退後も輝きは絶えない
(柚野真也)