現役プロが熱血指導 大分に広がる「バスケの灯」 【大分県】
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【指導者の肖像〜高校スポーツを支える魂〜】 信じる力が未来を変えていく 柳ケ浦高校バスケットボール部監督・中村誠(前編)
沖縄県の離島・沖永良部島。風と潮の音が日常に溶け込むこの地で、中村誠は育った。幼少期から白球を追いかけ、中学時代はエースピッチャーとしてマウンドに立ち、野球こそが人生そのものだった。
進学先として希望していたのは名門・沖縄水産高校。しかし、親族の間にはある不安があった。過去に進学した親族が学校生活になじめず帰島したという経緯があり、「安心して送り出せない」と反対が起きた。学区外の高校へ進むには住所を移す必要があり、最終的に選んだのは、寮が整っていた私学の興南高校だった。渋々の選択だったが、これが中村の人生を大きく転換させることになる。
中村の心はすでに決まっていた。「野球をするなら沖縄水産。そうでないなら、やらない」。興南高校では野球部に入らず、これまで無縁だったバスケットボール部の門をたたくことになる。半ば成り行きの選択ではあったものの、それが彼の人生を大きく変える決断となった。
当然、バスケットボールの経験はゼロ。練習ではボールにすら触らせてもらえず、体育館2階のギャラリーで腹筋・背筋、運動場での走り込みを黙々と繰り返す日々が続いた。「実家に帰りたい」と思ったことは一度や二度ではない。そんな中村の背中を押したのは、父の「補欠でもいい。三年間やり通してみろ」という静かな励ましだった。
やがてNBA選手のティム・ハーダウェイのプレーに魅了され、1対1の抜き技“キラークロスオーバー”をひたすらまねるようになる。昼休みも放課後もボールを離さず、「ボールハンドリングは誰にも負けない」と影の努力を続けた。3年生の引退後に行われた練習試合。キラークロスオーバーで相手を抜き去り、スリーポイントを9本沈めたその瞬間、空気が変わった。「努力すれば世界が変わる」。この実感が後に中村を“プレーする側”から“指導する側”へと導いていくこととなる。
進学した中京大学では1年目からベンチ入りし、インカレ(全日本大学選手権大会)の舞台にも立った。だが、日本代表を擁する日本体育大学との試合ではダブルスコアの完敗。自分との実力差に打ちのめされ、「このレベルには届かない」と、静かに現役引退を決意する。だが、バスケットボールを愛する気持ちは消えなかった。「違う形で、関わっていたい」。その思いが、やがて指導者という新たな道を照らし始める。
転機は突然訪れた。大学の恩師が急逝し、チーム運営を学生が担うことになる。練習メニューの作成、遠征の手配、ビデオ分析。すべてを仲間と分担してこなした。熱血漢の中村と、1学年下の松藤貴秋(中京大学監督)。対照的な二人のコンビネーションが、チームを前に進めた。この時の経験が、「人を動かすとはどういうことか」を教えてくれたという。
大学卒業後は沖縄に帰り、与勝高校で非常勤講師として監督を務めることになった。だが、現実は厳しかった。予算は限られ、体育館の使用枠すら満足に確保できない。週に数回の練習では選手たちの技術も伸び悩み、自分の存在意義さえ揺らぐような日々が続いた。
初めての練習試合では、母校・興南高校に120点差で大敗する。あまりの惨状に周囲が諦めムードに包まれる中、中村は静かに宣言した。「あいつら(興南)を倒す」。根拠のない言葉だったかもしれない。それでも、自分がまず本気を見せなければ選手たちはついてこないと信じていた。
その言葉を信じて、選手たちは走った。朝練を提案し、自らも一緒に汗を流した。練習メニューは毎日手書きで更新し、個別指導にも力を注いだ。放課後の体育館が空いていなければ屋外で走り込んだ。雨の日は教室で戦術の講義をした。たった3カ月という短期間で、選手たちの目の色が変わっていった。
中村誠の「人が育つ」3箇条
①信じて任せる
小さな一歩も選手を信じて見守ることで芽が出る。信じる力が人を伸ばす第一歩。
②技より人間力
勝つ前に、あいさつ・礼儀・思いやり。プレーの前に人間力。日常の積み重ねが勝負を決める。
③ゼロから作る勇気
最初は何もなくていい。環境がないなら信念で動け。情熱と行動で道は必ず開ける。
再戦の日、かつて120点差をつけられた興南高校に対し、与勝高校は堂々と戦い抜いた。結果はわずか1点差負け。試合後、涙を流しながら「先生、ありがとう」と声をかけてくれた選手たちの姿は、今も脳裏に焼き付いている。
「勝ったわけじゃない。でも、やり切ったと思えた」。中村はそう振り返る。選手を信じ、自分を信じ、ともに汗をかいた時間が、結果以上に価値あるものだと実感した瞬間だった。
この経験は、中村に“人を信じる力”を与えた。無名の若い監督についてきた選手たちと、必死に応えようとした自分自身。その積み重ねが指導者としての軸を形づくっていく。「どんな選手にも必ず伸びる瞬間がある」。それは、補欠からはい上がった自身の過去と地続きの思いでもある。
2006年、母校での指導を経た中村は、柳ケ浦高校が新たにバスケットボール部を立ち上げるという話を聞く。条件は「寮監ができる独身で体育教員」。ピンと来た。「これ、自分やん」。そう確信し、知り合いもいない大分への赴任を決めた。
だが、現実は“ゼロ”だった。部員は3人、ボールもタイマーもなし。それでも「4年後の沖縄インターハイ(全国高校総体)出場」を目標に掲げた。メンバー不足を補うため自らが選手として練習試合に出場することもあり、スカウトも遠征手配も、自転車操業でこなす日々。今では「もう一度やれと言われても無理」と笑うが、その努力は7年後の2013年、ついにインターハイ初出場という成果を結ぶ。
「生活がプレーに出る」。それが中村の哲学であり、信条である。あいさつ、掃除、時間厳守。日常の振る舞いこそが、勝利を支える土台になる。「信和力成(信じるは力なり)」。この自身で考えた造語には、経験や信条すべてが詰まっている。
コート上の勝敗を超え、人としてどう生きるかを伝える指導。バスケットボールという競技を通じて、他者を思いやる心、自分の行動に責任を持つことを教えたい。中村の情熱と覚悟が、ゼロから立ち上げた柳ケ浦高校バスケットボール部に、いかに息づいていったのか。
そして、九州の高校バスケ界に名を刻むチームがどのようにして育まれていったのか。指導者としての進化と、中村を突き動かす「信じる力」の核心に迫る後編へ続く——。
(柚野真也)

■プロフィール■
中村誠(なかむら・まこと)
1978年6月16日生まれ、沖縄県沖永良部島出身。
興南高校(沖縄)でバスケットボールを始め、中京大学を経て指導者へ。
沖縄県立与勝高→同翔南高→ 同宮古工業高→興南高→柳ケ浦高で指導。座右の銘は「信和力成」。
全国大会出場歴
インターハイ(2013、2014、2021、2022、2024、2025)
ウインターカップ(2013、2017、2020、2024)