
【指導者の肖像〜高校スポーツを支える魂〜】 折れた誇りが導いた信念 大分南高校バレーボール部監督・柿原茂徳(前編)
バレー
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大分工業のコーチとして指導キャリアを出発し、日田三隈、別府鶴見丘を経て大分南へ。柿原茂徳は、勝利のために「古い良さ」と「新しい発想」を両立させる挑戦を続けてきた。県内で先駆けて外部トレーナーを導入し、近年は“ブレイン(脳)トレーニング”を日常化。そして選手主体への転換。指導者として三十余年、彼はいま「主役は選手」と言い切る。
大分工業の体育館で、若き日の柿原茂徳は毎日のようにコートに立っていた。大学を出たばかりの1年目。自らレシーブに飛び込み、選手に混じって声を張り上げ、ボールを打ち込む。高校生以上に体は動き、熱は誰よりも強かった。当時の1年生には後に日本代表となる加藤陽一がいた。「こんな選手が高校にいるのか」と衝撃を受けたという。
この現場から、指導者としての第一歩が始まった。当時の役職はコーチ。だがその立場は、監督とは大きく異なる。監督の意図を練習に落とし込み、選手に伝える。勝敗の責任は直接負わないが、現場を回し続ける重さがある。非常勤講師の3年間は、遠征のバス運転まで担った。採用を勝ち取りたいという思いと、全国に通用するチームを育てたいという焦燥。その二つが柿原を支えていた。
この時期に出会ったのが、大分工業を率いていた名将・大河内紘昭である。徹底した「継続」を掲げ、時には深夜までの練習も辞さない姿勢。だが同時に、ラダーのような新しい器具をいち早く取り入れる柔軟さも持っていた。昭和的な根性論に見えて、その本質は革新的。古いものと新しいものをつなぐ指導は、後の柿原に強い影響を残した。彼自身も「古い良さを残しつつ、新しい発想を恐れない」という信念を、ここで得たのだ。
転機となったのは日田三隈への転勤だった。顧問となったのは女子チーム。最初の1、2年は「全国など行けるはずがない」と意欲を失っていた。だが3年目から状況が変わる。男子より運動能力で劣る選手をどう伸ばすかを必死に模索する中で、指導の本質に気づき始めたのである。
この時、柿原は県内でも早い段階で外部トレーナーをチームに導入した。北九州から専門家を呼び、ベンチにも入ってもらう。当時、県内で高校スポーツの現場にトレーナーが常駐するのは珍しかった。監督が全てを抱える時代は終わる。専門家の知識と力を融合し、役割分担で総合力を高める。その発想は、のちの指導哲学の核となった。
もちろん反発はあった。「お金がかかる」との声もあった。だが柿原は「人がやっていないことを先にやらなければ勝てない」と信じていた。性格的にめんどくさがりな部分もあると笑うが、むしろそれがプラスに働いた。自分一人で背負うより、専門家に任せることで新しい視点を得られる。人と人の交わりがチームを強くするという信念は、ここから形を取っていく。
別府鶴見丘に転任した当初、部員はわずか6人。そのうち2人は初心者で、試合どころか練習を成り立たせるだけでも苦労した。だからこそ中学生のスカウトに動き、県選抜から複数の選手を呼び込んだ。練習時間が十分に確保できない状況の中、外部トレーナーを活用し、時には「体づくりだけの日」を設けて工夫を重ねた。そうした積み重ねの先に県大会での頂点をつかみ、6連覇を達成したところで転勤となる。だがその後もチームは勢いを止めず、結果的に9連覇へと歩みを続けていった。
しかし、連覇は単なる勝利の積み重ねではない。勝つほどに監督の責任は重くなり、チームにかかる期待は膨らむ。大河内からは「3連覇、次は5年目、そこを越えれば常勝になる」と言われていた。その言葉通り、連続で勝つ難しさと重みを鶴見丘で体感した。
「勝ったと思った瞬間から負けが始まる」。この教訓は、柿原の勝負観を深く形づくった。
柿原が大分南を率いるようになってからも、挑戦は続いた。特に大きな転機はコロナ禍である。それまでの指導は「俺の言うことを聞け」という側面も少なからずあった。しかしコロナ禍を経て考えは一変した。選手主体にしなければ全国では戦えない。地元出身の選手、しかも公立高校という条件で、全国の私学の強豪と同じやり方では到底届かない。
ここで「脳の使い方を変える」という新しいアプローチを導入した。専門のメンタルトレーナーを呼び、いわゆるブレイン(脳)トレーニングを日常に組み込んだのである。月に一度の対面セッションでは、集中力の高め方や自己肯定感を引き出す方法を学ぶ。さらに普段の練習前には、トレーナーが録音した音声テープを聞く習慣を取り入れた。内容は「自分はできる」「全国の舞台で通用する」といったポジティブな言葉を繰り返し耳にする自己暗示や、呼吸法・イメージトレーニングの指導などだ。それに加えて、選手たちは「ブレインノート」と呼ばれる専用のノートに、自分の感じたことや練習の気づきを毎日書き込み、頭の中を整理する。こうして選手が自分の思考を更新し、従来の自己評価の殻を破る訓練を続けていったのである。
「小学校から無意識に作られるヒエラルキー(自己順位付け)を壊さなければ、全国では勝てない。勘違いでもいい、枠を超える意識を持たせることが大切」と柿原は語る。2025年の春の高校バレーでベスト16に入った背景には、この新たな挑戦があった。
近年のバレーボール界ではアナリストによるスカウティングが一般化している。相手のサーブやスパイクの傾向をデータで把握し、戦術に落とし込む。柿原も動画や紙資料で選手に情報を伝える。だが、ここでも「やらされコーチング」を嫌う。
「リアルタイムに試合を止めて細かく指示することは極力避ける。選手自身が状況を判断できるようにコーディネートするのが自分の役割だ」と語る。監督の声は歓声にかき消される。だからこそ、作戦タイムの2回までに“自分で直す習慣”を身につけさせることが勝負を分ける。日常の自律こそが、試合での自律に直結するのだ。
【柿原茂徳の指導三箇条】
頑固にならず、柔軟であれ
固定観念に縛られず、その年の選手に合わせてチームを再設計する。
選手を主役に据える
監督は「コーディネーター」。考え、修正し、成長するのは選手自身である。
勝った瞬間から学びは始まる
慢心せず、「勝利の先にこそ負けが潜む」と心得る。そこに継続の力が宿る。
柿原にとって譲れない信念は何か。それは「頑固にならないこと」という。年齢を重ねるほど固定観念に縛られがちだ。だからこそ意識して柔軟であることを選ぶ。古いものへの敬意を持ちながら、新しい発想を取り入れる。
今も目標は全国優勝。メンタルトレーナーからは「監督が本気でそう思わなければ実現しない」と告げられている。30年以上の指導歴を経てもなお、頂点を諦めてはいない。
同時に、柿原にとって指導を続ける最大の喜びは「教え子の存在」である。全国大会の会場に立てば、卒業生たちが応援に駆けつけてくれる。いまも現役選手としてコートに立つ者もいれば、チームを支えるトレーナーになった者、さらには寿司職人として別の世界で腕を振るう者もいる。進んだ道はそれぞれだが、懸命に生きる姿を目にすると、自分の歩みが確かに次の世代へつながっていると実感できる。「教え子は何よりの宝物」。その言葉には、30年以上の指導者人生で得た本当の財産がにじんでいる。
自らを「コーディネーター」と表現するのも、そうした姿勢の延長である。主役は監督ではなく選手。指導者は環境を整え、力を引き出す順番を整える役割に徹する。コロナ禍を経て、その思いは一層強まった。
「勝ったと思った瞬間から負けが始まる」。春の高校バレー県予選の決勝5セットを、「人生の縮図」と呼ぶ。良いときも悪いときもある中で、どこで我慢し、どこで攻めるか。崩れたリズムをどう立て直すか。バレーボールも人生も同じだと、柿原は信じている。
海外の育成年代の取り組みにも強い関心を持ち、学び直す意欲は衰えない。成功体験に縛られず、常に新しい引き出しを増やし続ける。その姿勢が30年以上現場に立たせ続けてきた。
春の高校バレーのベンチは、柿原にとっても「学びの教室」である。勝利の先に慢心が潜み、成功の裏に試練が訪れる。その繰り返しが、指導者としての厚みを形づくってきた。
柿原は言う。「主役は選手」。監督はあくまで舞台裏のコーディネーターである。外部トレーナーを呼び込み、メンタルトレーニングを導入し、選手主体のチーム作りを進めてきたのも、その信念に基づく。
勝利の瞬間に「まだ負けは始まっている」と冷静に見つめ、敗北からも学びを拾い上げる。常に柔らかく、そして頑固にならず。目指すのは勝ち続けること以上に、選手が主体的に考え、成長し、未来へ羽ばたいていくチームである。
指導者としての30年を経てもなお、全国制覇の夢は消えていない。その道のりの先で、また新しい挑戦を仕掛けるだろう。柿原のバレーボールは、いつだって進化をやめない。
【プロフィール】
柿原茂徳(かきはら・しげのり)
1969年8月1日生まれ、宮崎県宮崎市出身。小学2年でバレーを始め、中高時代に全国大会出場。日本体育大学を経て指導者へ。卒業後は大分工業高で8年間コーチを務め、その後、日田三隈、別府鶴見丘、大分南で監督を歴任。インターハイ、春の高校バレー出場の常連チームを率いてきた。
全国大会出場歴(コーチ時代を含む)
インターハイ(1992〜1999、2005、2009〜2014、2018、2023、2024)
春の高校バレー(1993〜2000、2006、2010〜2012、2015、2019、2020、2024、2025)
(柚野真也)
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