
臼杵高校バレーボール部 原 唯華(3年) file.868
バレー
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駅伝選手として体力を誇った少年が、昼休みに触れたバレーボールに心を奪われた。そこから始まった競技人生は、中学でエースとして全国の舞台を経験し、高校で身長の壁に直面する試練へと続く。柿原茂徳は攻撃の道を断たれながらも、守備とレセプションに活路を見出し、“生き残る術”を徹底して磨いた。その日々こそが、指導者としての信念を形づくった原点である。
バレーボールとの出合いは、昼休みの体育館だった。小学2年の柿原茂徳は、駅伝の選手に選ばれるほど体力には自信があり、走ることでは誰にも負けないと思っていた。当時の柿原にとってバレーボールはあくまで遊びの一つに過ぎなかったが、友達に「うまいな」と褒められたその一言が転機となり、地域の少年団チームに入団する。ワックスの香りと汗の匂いが入り混じる体育館の床に立った瞬間、ただの遊びが競技へと変わる予感が走る。胸が大きく高鳴り、まだ幼い心に「ここから何かが始まる」という直感が刻まれた。
小学6年の夏、小学生バレーボールが初めて全国規模で交わる「ライオンカップ」が創設された。それまで男女混合チームであったが、初めて男子チームとして県予選へ。本気で「優勝できる」と信じていたが、レベルは別世界だった。相手はフライングレシーブを当たり前のように決め、守備から一気にスパイクへ移る。自分たちはレシーブの型さえ知らない。スパイクが打てるという自負は一瞬で砕けた。「井の中の蛙」。その悔しさと驚きは、のちの指導哲学までをも貫く初めての原体験となった。
中学は宮崎市の赤江中に通った。そこで本格的に指導を受け、中学2年の新チームで新人戦を制す。身長はすでに170センチ近く、同じサイズの仲間も多く、チームは勢いに乗った。だが転機は突然訪れる。中学3年を待たず監督が転勤したことをきっかけに、強豪・都城高校で上を目指すため、都城市の姫城中へと転校したのだ。そこには宮崎でも名高い名将がいた。新天地での厳しい練習と規律の中、柿原は再び“全国”を知る。県大会では古巣・赤江と2回戦で対戦して勝ち切り、そのまま九州、そして全国の舞台へ。準々決勝で愛知の優勝校に敗れたが、全国の景色は明確に焼きついた。転校による後ろめたさや「裏切り者」と見られる痛みはあった。しかし、それが「結果で示すしかない」という覚悟を育て、柿原の背筋を伸ばした。
都城高は、全国で勝つことを目指す学校だった。工業高校ゆえ授業は15時に終わる。そこから6時間もの練習が毎日続く。時には日付をまたいだ。日本体育大学に進んでから同世代に聞かされた。「都城は全国一、練習していた」と。事実、その練習密度はすさまじい。基礎の徹底、レシーブの反復など勝つために必要なものを叩き込まれた。
過酷だったのは練習だけではない。高校に入ると多くの仲間がぐんぐんと身長を伸ばしていった。だが、自分の体は思うように伸びず、やがて止まってしまった。最終的な身長は175センチ。中学時代はエースでキャプテンを務め、スパイクを決める快感を知っていた。けれども、高校の現実は非情だった。高さのないエースに居場所はない。ではどう生き残るのか。柿原が選んだ答えは、徹底したレセプション(サーブレシーブ)とディフェンスを極めることだった。
当時はまだリベロ制度がなかった。レセプションを返し、そのまま時間差攻撃に走る。セッター対角のポジションには、もともと守備力の高い選手が起用されることが多く、柿原もその役割を任されるようになった。都城高は全国的にも「守備力の高さで勝負するチーム」と知られており、レシーブに徹底的にこだわる練習で有名だった。ワンマン、ツーマン、スリーマン。レシーブ練習だけで3時間続くことも珍しくない。柿原は誰よりも早く体育館に入り、何百本もボールを受け続けた。さらに外へワンタッチで逃がす処理や、相手ブロックの手に当ててアウトを奪うテクニックも磨いた。後輩にまで自分より背の高い選手が並ぶ環境で、レギュラーに残り続けるには、誰よりも練習するしかなかった。
それでも心は折れかける。高校2年の冬、厳しい指導に耐え切れず、1カ月ほど体育館から姿を消した。辞めろと言われ、本当に辞めるつもりだった。だが恩師が家を訪ね、「戻ってこい」と抱き留めた。復帰初日、待っていたのは30分のワンマン練習。逃げ道をふさぐような、真っ正面からの課題の提示だった。泣こうが吐こうが、足を止めた時間はコートで取り戻すしかない。あの期間を柿原は「いちばん苦しかった時間」と振り返る。けれど同時に、そこで手にした“覚悟の筋肉”は今も残っている。
都城高での成績は、自身が1年生のときに全国準優勝、自分たちの代はベスト16。大輪の花を咲かせることはできなかったかもしれない。だが、柿原はそこで一つの事実を知る。人生には“才能の壁”がある。しかし、勝負はそこで終わらない。受け方、立ち方、声の出し方、次の一歩の速度…。微差を積み重ねて役割を変えれば、チームの中で生きる道は開ける。エースのプライドが砕けた場所で、柿原は「役割の誇り」を拾い直したのだ。
【柿原茂徳を支える三つの信念】
生き残る術は努力にある
身長や才能に恵まれなくても、誰よりも練習し、武器を磨けば道は開ける。
守備こそチームの生命線
一本のレセプションが流れを変える。守備の執念が勝敗を決める。
結果で示し、人を動かす
環境や人間関係に揺れても、最後に信頼を得るのは努力と結果である。
日本体育大学への進学は、競技を続けるというより、自分の体験を言語化し、将来に生かすための選択だった。同期が50人規模、総勢200人の大所帯。トップへ上がる競争は激しい。周囲には全日本候補級の選手が普通にいる。柿原は1年で二軍、9人制も並行しながら、3年時に9人制のAチームに食い込む。そこで磨いたのは、勝敗の記録ではなく、観察の眼である。チームが機能するとき、何が起きているのか。選手が伸びるとき、どこに変化が宿るのか。練習の設計、声かけの温度、緊張の解き方。都城高で身体に刻みつけた“生き残る術”を、大学では言葉と構造に置き換えていく作業が始まった。
この頃、心の奥底には既に「指導者として生きる」という輪郭が見え始めていた。もちろん、選手として上を目指す情熱が消えたわけではない。だが、身長という現実を受け入れて以降、柿原は勝ち方の“仕組み”に強く惹かれるようになっていた。なぜ、守備が整うと攻撃が走り出すのか。なぜ、一本のレセプションが流れを変えるのか。なぜ、役割を受け入れた瞬間、チームは強くなるのか。自分を救った問いは、やがて他者を救う言葉になり得る。そう確信できるほど、体験は深く、傷は鮮明だった。
影響を受けた指導者を問われると、柿原は迷わず「すべて」と答える。赤江中の指導者、姫城中の名将、都城高で日々を共にした先生方。そして後年、大分工業で出会うことになる大河内紘昭の名も、自然と口をつく。カテゴリーが変われば、勝つための論理も、育てるための方法も微妙に変わる。だが共通していたのは、目の前の一人を成長させる熱と、嘘のない眼差しだった。叱るときは真正面から、褒めるときも真正面から。柿原の独特の語り口は、その真っ直ぐさに由来する。
現役期に最も輝いた瞬間は中学時代だという。エースとして全国ベスト8、雑誌にも載り、勝利の中心にいた自分を確かに誇らしく思う。だが、自分を作ったのは高校3年間だとも断言する。生き残るために何を捨て、何を磨くのか。劣勢な状況を的確に把握し、次の一本へ踏み出すのか。勝って学ぶことより、負けて学ぶことのほうが多かった。だからこそ、後年、選手に「役割を誇れ」と言える。レシーブ一つで勝負を変えられる、と胸を張って言える。柿原は高く跳ぶ術を失った代わりに、折れない心の脚を手に入れた。
大学3年でAチームに上がったころ、柿原はほぼ確信していた。自分は選手の生き残り方を誰よりも知っている。だから、教えられる。勝負の現場で苦しんだ身体と言葉を、次の世代のために差し出そう。その決意はやがて、教壇と体育館の二つの現場へと導くことになる。
こうして、エースからレシーバーへ、そして指導者へ——。少年の頃、県大会で味わった井の中の悔しさは、いま「基礎と守備を徹底する」という教えに結実している。一本のレセプションが流れを変えることを、身体で知っているからだ。原点はいつも、床の匂いとともにある。深夜まで続いた都城の体育館、無数のボール痕、指先の火照り。そこに戻れば、いま伝えるべき言葉が必ず見つかる。柿原の指導論は、勝利の技術である前に、生き残るための倫理である。
後編では、柿原が実際の現場で何をどう設計し、どんな言葉で選手を動かし、どのようにチームを全国へ導いてきたのか。「目指すバレーボールの哲学」を解き明かしていく。勝利は偶然ではない。覚悟と設計が、その背後に静かに積み上がっている。
【プロフィール】
柿原茂徳(かきはら・しげのり)
1969年8月1日生まれ、宮崎県宮崎市出身。小学2年でバレーを始め、中高時代に全国大会出場。日本体育大学を経て指導者へ。卒業後は大分工業高で8年間コーチを務め、その後、日田三隈、別府鶴見丘、大分南で監督を歴任。インターハイ、春の高校バレー出場の常連チームを率いてきた。
全国大会出場歴(コーチ時代を含む)
インターハイ(1992〜1999、2005、2009〜2014、2018、2023、2024)
春の高校バレー(1993〜2000、2006、2010〜2012、2015、2019、2020、2024、2025)
(柚野真也)
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