
【指導者の肖像〜高校スポーツを支える魂〜】 あのゴールが教えてくれた 大分鶴崎高校サッカー部監督・首藤謙二(前編)
サッカー
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大分鶴崎高校のサッカー部が「パスサッカー」を体現するまでには、長い試行錯誤の年月があった。首藤謙二が指導者としての第一歩を踏み出す以前。大学卒業後の2年間、彼は大分トリニティ(現・大分トリニータ)の一員として、大分県リーグから始まったチームの立ち上げ期を支えていた。九州リーグ、そしてJFLまで昇格したその頃、プロの扉を叩く選手たちの中で、自身は汗をかき続けるスタイルを貫いた。
しかし首藤の中には、次第に「教える側になりたい」という思いが膨らんでいた。Jリーグを目指すには届かない現実も、教員を志していたことも決断を後押しした。そしてスパイクを脱ぎ、教職の道へ。指導者としてのキャリアは、そこから始まった。
初任地は大分女子高校(2003年閉校)。そこにはサッカー部はなく、授業や学校行事を通じて生徒と向き合う日々が続いた。サッカーの指導という意味では実質、準備期間のような一年ではあったが、「人と関わることの難しさと面白さを、あの時に初めて実感した」と、首藤は振り返る。教育の礎は、この1年で静かに培われていった。
そして翌年、大分雄城台高校へ異動。ようやくサッカー部を持つことができた。若さと情熱をそのままぶつけ、選手たちと一緒に走り、ともにボールを追いかけた。まだ自分の体も動く年齢。練習では実際に見本を見せながらプレーし、選手の輪の中に自然と入り込むような感覚だった。「選手と同じ目線で過ごしたあの時間が、自分の指導者としての原点になっている」と今も語る。
しかし、真の壁にぶつかったのは、佐伯鶴岡高校(16年閉校)に赴任したときである。決して整っているとは言えないチーム状況。指導の土台となる“日々の積み重ね”がまだ根づいておらず、練習への参加意識もまばらで、試合になれば大差で敗れるような状態だった。思うように走れず、体力不足を露呈し、技術的にも課題が山積していた。
それでも首藤は諦めなかった。「サッカーは努力で変わる」、「続ければ、きっと結果はついてくる」。その思いを言葉にして伝え続けた。目の前にいる選手たちを信じ、変化を信じ、日々の練習に向き合った。チームとしての輪郭がようやく見え始め、選手たち自身も「やれば変われる」と信じられるようになるまでに、3年という月日が必要だった。このときの経験が、のちの首藤の指導スタイルを形づくる大きな礎となった。状況を受け入れ、その中でどう前に進むか。環境に左右されることなく、選手一人一人に可能性を見出し続ける姿勢は、このときに磨かれたものである。
転機となったのは、国体の大分県選抜チームを率いたときのことだった。以前から親交のあった当時Uー17日本代表監督を務めていた吉武博文と言葉を交わす中で、心が大きく揺さぶられた。吉武が掲げていたのは、4―3―3のシステムを基盤とする「自分たちが主導権を握るサッカー」。単なる戦術の話ではなかった。「なぜそのポジションに立つのか」「何を見て、何を選ぶのか」。プレーのすべてに意図と思考がある。首藤はその思想に深く共鳴した。
「これだ」と思った。「つないで崩す」。それは偶発的な得点に頼るのではなく、選手が状況を読み解き、意図をもって相手を崩し切るサッカー。見ていて美しく、何より選手が成長できるサッカーだった。試合の中で選手たちが自ら考え、判断し、連係によって局面を打開していく。その姿に指導者として目指すべき未来がはっきりと浮かび上がった。その哲学は、静かに確実に首藤の中に根を下ろした。それまで感覚や経験に頼っていた部分を理論に裏打ちされたスタイルへと昇華させていくプロセスが、ここから始まったのである。
だが、その理想を形にするには想像以上に時間を要した。現実は甘くない。選手の技術や理解力、試合の流れ、相手との駆け引き。理想を貫くには、あまりに多くの壁が立ちはだかった。結果が出ない時期には心が揺れることもあった。一か八かのロングボールや、個人の突破力に頼った戦い方のほうが即効性はあったからだ。
首藤謙二の「指導論」3箇条
①練習していないことは試合でもやらない。
積み重ねこそが戦術の土台。即興の勝利では本物の強さは育たない。
②うまい選手が偉い空気は絶対につくらない。
全員に役割と価値がある。支える者こそチームを強くする。
③選手と共に自分も変わり続ける。
変化を恐れず、でも信念は曲げない。共に悩み、ともに成長する存在でありたい。
ふと立ち返ったとき、そこに育成はないと感じた。偶発的な勝利では、選手の成長もチームの深化も得られない。意図を持ってつなぎ、崩すサッカーこそが自分が本当にやりたいこと。その確信が腹の底に落ちたとき、首藤のチームは少しずつ変わり始めた。
試合に出る選手も出られない選手も、ピッチ外で戦術やプレーについて意見を交わすようになった。上下関係に縛られない風通しのよい空気が生まれ、仲間を信じてパスを受け渡し、誰かの動きに連動して自然とスペースが生まれる。そんな「意図ある連動」が少しずつ日常の中に根付いていった。
そこにあったのは、ただ勝つためだけのチームではなかった。選手が自ら考え、行動し、互いを支え合いながら成長していく。育つ場としてのチームの姿だった。首藤が重視するのは、「目立たないけど信頼できる選手」だ。力任せに前に出るよりも、相手の間で受けてポジションをずらす。地味だが試合を動かす仕事を見逃さず、そこに価値を置く。それは、自身が選手時代に地道なプレーで勝負してきた経験が、今の指導にも確実に息づいているからだ。
ピッチに立つ11人だけではない。首藤の目は常にチーム全体に注がれている。「巧い選手が偉い」という空気を排し、誰もが意見できる風通しのよい環境をつくること。突出した実力を持つ選手に偏らない、組織としての強さ。そこにこだわり続けてきた。もちろん、時に厳しい対応も必要になる。サッカーに向き合ってない選手には、あえて練習中に「帰れ」と言い渡すこともある。ただし、その後には必ず言葉を交わし、納得のうえで戻す。それが“育てる”ということ。成長を望む選手に必要なのは、甘やかしではなく、本気で向き合ってくれる存在なのだ。
チームづくりにおいても、「準備していないことは試合でやらない」という信念は徹底されている。どんなに流れが悪くても、その場しのぎの策には頼らない。運任せのパワープレーでは、未来を見据えた成長はない。采配とは、日々の練習の延長線上にあるべきもの。それが、首藤の「采配美学」である。
試合中も声を止めない。ベンチに座ることなく、ライン側で常に選手に指示を送る。「試合は指導の場でもある」と捉え、リアルタイムでの修正を惜しまない。選手に判断を委ねつつも、必要な導きは怠らない。勝つためだけでなく、選手の成長を促すことが、首藤の采配には織り込まれている。そして、最も大切にしているのは「変われる選手」を育てること。能力の高さよりも耳を傾け、努力を惜しまない選手に未来を見出す。その成長のきっかけは、ほんの些細なこと。「自分が必要とされている」と実感できたときに選手は変わる。その実感を与えるために、どんな練習にも、どんな会話にも、意味を込めて向き合っている。
「指導者とは選手とともに変わり続ける存在」。そう語る首藤の言葉には、揺るぎない覚悟と柔らかな情熱がにじんでいる。信念は一つ。「どれだけ形が変わってもパスをつないで崩す」。その理想を貫く覚悟が、今日もグラウンドに息づいている。
(柚野真也)
【プロフィール】
首藤謙二(しゅとう・けんじ)
1972年9月26日生まれ、大分県大分市出身。
兄の背中を追い小4でサッカーを始めた。大分鶴崎高では1、3年時に全国選手権出場。大分トリニータの前身・大分トリニティでプレー経験もある。1999年に教員採用され、2015年に母校に戻り、「鶴崎スタイル」を築き上げた。
全国大会出場歴
インターハイ(2022、2025)
全国選手権(2024)
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