
サッカーU―17日本代表 代表の誇りを胸に、平野稜太が世界へ挑む 【大分県】
サッカー
1994年4月の始動から四半世紀余り。大分トリニータの歴史を彩った個性豊かな選手たちの“今”を追ったインタビュー企画。第3回は左サイドの職人としてJ1昇格の原動力となった有村光史。昇格後も厳しい時代を支え、礎を築いた。現役引退後は“第2の故郷”大分に戻り、大分東明高校で体育教師として教壇に立つ傍らサッカー部の監督として指揮する。
Q:J1からJ F Lまでプロサッカー選手として多くのカテゴリーを経験しましたが、大分トリニータ在籍時の思い出を聞かせてください。
大分では2002年から4年間プレーしましたが、僕のプロキャリアの中で一番試合に出させてもらったチームであり、J1昇格も経験させてもらいました。年齢的にもサッカー選手として充実していた。すごく成長させてもらったチームです。大分は今もそうだと思いますが選手とファン、サポーターの距離が近く、楽しかった思い出しかないです。
Q:大分でのベストゲームは?
02年の昇格を決めた大宮戦。僕はその年に加入したのですが、3年連続であとわずかのところで昇格を逃したのは知っていたし、そのクラブからオファーをもらったことがうれしかったことを覚えています。当時の大分ではアグレッシブに戦うことを求められました。前から後ろまで守備意識をたたきこまれ、春先のキャンプからシーズンに入っても週明けの練習は4、5㌔を当たり前に走っていました。狙っていたかは分かりませんが1−0の試合が多かった。ボールを握られ(保持され)、シュート数も少なかったですが、1点を取ったら勝てるという思いが選手にあり、1−0で勝つたびに自信がついた。昇格を決めた時の充実感はたまらなかったです。
Q:大分でプレーしていた時にすごいと思った選手は?
元オランダ代表のリチャード・ビチュヘ。加入したときは35歳ぐらいでピークは過ぎ、動けなかったけどボールの扱い方がうまく、奪われなかった。とりあえずビチュヘにボール預けとけ、みたい感じはありました。マグノ・アウベスもすごかった。スピードと得点力は半端なかった。ドドのテクニックも次元が違った。ポケットに手を突っ込んで練習をするようなタイプでしたが、紅白戦や公式戦で本気を出すと誰も止められなかったです。日本人選手だと吉田孝行。どの監督になっても試合に出ることができたのは、監督の求めることをよく理解していたからこそ。顔はカッコイイし、派手な感じもするけど、ハードワークができ、どのポジションでも結果を残したのはすごいと思います。ディフェンダーなら三木隆司と山崎哲也。1対1が強く、意外と知られていないけどスピードがあり身体能力が高かった。サッカーは攻撃の方が有利で、守備は攻撃のアクションに対してのリアクションになる。自分の逆を突かれたときにどれだけついていけるかが勝負になりますが、あの2人はスピードで振り切られるところを見たことがないです。
主力として勝利に貢献した有村光史(前列中央)
Q:現役を引退して、熊本でアカデミーのコーチをした後に大分東明高校で教員となりました。それまでの経緯は?
大分を出てから名古屋、神戸でプレーし、ゼロ提示を受けました。大学の指導者の話とかもあったのですが、トライアウトを受けて熊本に引っ張ってもらいました。今では地域リーグでプレーする選手はいますが、当時はカテゴリーがJ1からJ F Lに落ちてまでプレーする選手はいませんでした。カテゴリーを二つ落とすのは厳しい。給料も5分の1になる。悩んでいた時に嫁さんが「現役を続けたいのでしょ」と後押ししてくれて、熊本で2年間プレーし、その後にアカデミーのコーチの勉強をさせてもらいました。その後は縁あって平松学園から体育教員とサッカーの顧問としての採用の話があり、大分に“戻ろう”と思いました。
Q:Jクラブのコーチと部活動では指導も異なると思いますが、戸惑いはなかったのですか?
1年目はカルチャーショックでした。プロを目指す選手と部活動に励む選手の違いに驚きました。選手へのアプローチにしても、試合で戦術うんぬんを教えるのではなく、昨日までリフティングが30回できなかった生徒に指導するわけですから。だけど部活動にも良さがある。自分の目標に向かってサポートする指導もいいなと思います。「30㍍蹴るにはどうすればいいか」と毎日ボールを持って僕のところに来た生徒がいて、2、3日で蹴れるものでないから動画を撮って、指導する。そんな生徒が3年間部活動を続け、しっかりボールを遠くに蹴れるようになる。生徒の「最後まで続けて良かった」という言葉がどんなにうれしいか。目標に向かって成功までの過程を経験したことは一生残ると思っています。違うステージにいっても、その努力はいつか通用する。僕は志と目的意識がある生徒は受け入れるし、その手伝いをしたいと思っています。
プロフィール
ありむら・こうじ/1976年8月25日生まれ、福岡県出身。東福岡高校-福岡教育大学-鳥栖-大分-名古屋-神戸-熊本、大分トリニータ在籍は4年間。J1リーグ通算76試合1得点、J2リーグ通算124試合7得点など。無尽蔵のスタミナでサイドを駆け上がり、チャンスを演出した攻撃的サイドバックとして活躍。現在は大分東明高校サッカー部の監督を務める。
(柚野真也)
Q:昨年から大分はJ1に復帰しましたが、現在のチームを見て思うことは?
カタさん(片野坂知宏監督)が指揮するようになってサッカーの内容が劇的に変わった。失礼な言い方ですが、ビッグクラブに比べて戦力が落ちる中で、あれだけチームがやりたいサッカーができ、統一できている。僕がいた頃は堅守速攻でリアクションサッカーでしたが、今は鹿島や浦和、横浜相手に自分たちが主導権を持ってプレーができています。地方のクラブですごいことだと思います。
Q:片野坂監督の素晴らしいところは?
大分で一緒にプレーしたことがあります。選手の頃から先輩風を吹かすわけでもなく謙虚な人でした。人が良いというイメージしかない。僕とは同じポジション(左S B)だったけどプレースタイルは全然違った。カタさんは技巧派で、左右両足で蹴れて、ボランチもできるような選手でした。選手の時から自分にないものを持っていました。
同じ指導者になって感じることは、選手に戦術をしっかり落とし込めているところ。サッカーには正解がないし、野球のようにポジションが決まっていないから、選手をどの位置に配置してもいいし、どんなシステムで戦ってもいい。その中で選手に戦い方を理解させ、徹底させるのは本当に難しい。ペトロビッチ監督や森保一監督、長谷川健太監督の下でコーチを経験し、それらの監督のいい部分を自分の中に取り込んで指導できているのだと思います。
Q:今後の大分に求めることは?
ACLに出場するようなチームになって、関東圏の人が大分でプレーしたいと思えるクラブになってほしい。専用練習場もクラブハウスもなく、練習着の洗濯は自分でするような時代を経験している選手としては、この数十年間でのクラブの成長は誇らしいし、チームの成長も素晴らしいと思います。現役の選手には今ある環境が当たり前だと思わず、苦しい時代があったこと、大分はファンやサポーター、行政、企業の支えがあって今があることを理解してプレーしてほしいです。
左サイドのスペシャリストとしてプレー
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