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トリニータの歴史を彩った選手たちの今② 西野晃平(日本文理大学サッカー部監督)

トリニータの歴史を彩った選手たちの今② 西野晃平(日本文理大学サッカー部監督)

 1994年4月の始動から四半世紀余り。大分トリニータの歴史をひも解くと、「最短JFL昇格」、「最終戦の悲劇」、「J1昇格」、「万年残留争い」、「ナビスコカップ優勝」、「経営危機」、「J2・J3降格」、「2段階昇格」など、いくつものキーワードが浮かんでくる。その光と影のなかで歴史を彩った個性豊かな選手たち。彼らの“今”を追った。第2回は2005年に大卒ルーキーとして加入した西野晃平。在籍が1年だけだったが、引退後は日本文理大学の監督として大分のサッカー向上のために尽力している。

 

対抗できる武器を磨いた現役時代

 

Q:大卒ルーキーとして2005年に大分トリニータに加入しましたが、当時のチームや印象に残っている試合はありますか?

 今思えばそうそうたるメンバーだったなと思います。同期には同じ大卒の深谷(友基)、高卒組では西川周作(浦和)、梅崎司(湘南)らがいました。同じポジションのFWには(高松)大樹さんやマグノアウベス、(吉田)孝行さん、シーズン途中には(山崎)雅人さんが入ってきて、ガムシャラに練習して、アピールするしかなかった。自分は1年しか大分に在籍していませんが、デビュー戦の(7節)神戸戦でプロ初ゴールを決めた試合は思い出深いです。

 

Q:当時は個性的な選手が多かったなかで、比較的早い時期に試合に出て結果を出しました。ファーストシュートが決勝点になった派手なデビューでしたね。

 1点リードした試合終盤に出場して、逃げ切るために前線から守備をしていたのですが同点にされて、何とかしなければという気持ちだけでボールを追い回した。中盤でボールを受けてそのままドリブルで持ち込んでシュート。観客のワーッという大歓声はこれまで決めたどのゴールとも比べものにならないぐらいうれしかったです。

 ポジション争いはし烈でした。大樹さんは体が強く、ポストプレーもシュートもうまく万能型の選手。自分にとって大きな壁でした。唯一対抗できるのは当たりの強さとヘディングで、他に武器を増やすより自分の個性を伸ばすことに力を入れました。そこを評価されて起用されたんだと思います。

 

Q:大分を離れJ2の水戸で3年、岡山で2年プレーし、コンスタントに得点を挙げていました。

 レベルの高い大分で1年間プレーしたことで、J2では自分ができるプレーが多かったと思います。8、9点は取れたのですが最後まで2桁得点できなかったのは悔しいです。筋肉系のけがが多く、1年通してプレーできませんでした。プレースタイルがアグレッシブだったし、無理の利く選手として認識されていたので多少のけがでは休まなかった。プロでの6年間は自分のサッカー人生において貴重な経験をさせてもらいました。

 

デビュー戦で初ゴールを決めた西野晃平

 

九州のサッカー界を盛り上げたい

 

Q:西野さんの今後の目標は?

 まずは九州制覇。その先に日本一があります。最近は高校も九州のチームが結果を出せていないので、九州のサッカーを盛り上げるためにも強いチームにならなければいけない。それと大分出身の選手を増やしたいです。県内選手には窓口を広げていますし、県外の高校に越境入学した選手に対しても大学は地元に戻ってくるようなスカウトもしています。

 

Q:九州のサッカーを盛り上げるためには大分トリニータの活躍も欠かせません。OBとして期待することはありますか?

 チームが強くなって、もう一度タイトルを取ってほしいです。目に見える結果を望んでいます。そして、大分のサッカーはこうだよねというスタイルを残してほしい。今の監督、フロントにはその力があると思っているので、何十年後も変わらぬ土台をつくってほしいですね。

 

Q:県内には西野さんをはじめ、OBが指導者になっていますね。

 トリニータでは片野坂(知宏)さんが監督、(西山)哲平さんがGMとなっているし、一緒にプレーしたことのある(吉村)光示さん、ウメさん(梅田高志)がアカデミーの監督。九州スポーツカレッジの金本圭太さんも大分東明の有村光史さんもOB。他にも多くのOBが県内のサッカー界にいる。練習試合をしたり、情報交換は密にできるし、つながりがあるのはありがたい。トリニータをトップとして、選手を吸い上げるような仕組みができたら面白いなと思います。

 

 

■プロフィール■

にしの・こうへい/1982年4月15日生まれ、兵庫県出身。御影工業高校―日本文理大学―大分トリニータ―水戸ホーリーホック―ファジアーノ岡山、大分トリニータ在籍は1年間。J1通算8試合1得点、J2通算146試合34得点。ヘディングの強い屈強なストライカーとして活躍。現在は日本文理大学サッカー部の専任監督。

 

 

(柚野真也)

 

引退後は母校で指導者に

 

Q:J1とJ2の違いは?

 もちろん選手の実力が違いますが、練習環境、処遇はそれ以上に異なりました。僕が大分に入団した2、3カ月は犬飼の練習場に車で40分かけて通っていましたが、その後は専用の練習場にクラブハウスができて、素晴らしい環境でサッカーができました。水戸、岡山は毎日練習場が異なり、練習着は自分で洗濯していたし、体のケアをする施設が万全ではなかった。大分はクラブとしての土台がしっかりしているんだと感じました。

 

Q:現役引退してから母校の日本文理大学で指導者の道を歩みますが、その経緯は?

 コーチとしてのオファーがいくつかあったなかで、母校からの誘いがありました。自分は高校ではプロになれず、大学で成長させてもらいました。高校で開花しない選手でも大学4年間で力をつけることができる。そんな選手を育てたいと思い、大学で指導することを選びました。

 

Q:6年間コーチをして、その後に監督に昇格しましたが、コーチと監督の違いは?

 コーチの頃は試合に絡める選手を育成することが主だった仕事でしたが、監督になれば結果に対しての責任やプレッシャーは大きかったです。監督になった当初は前任者の指導法を継続しましたが、同じやり方でも人が変われば伝わり方も異なる。それなら自分の色を出していかなければと思いました。心掛けているのは妥協しないこと。「これぐらいでいいか」を流さないようにしています。相手にとって言われて辛いことでも、口に出すようにしています。

 

Q:中学や高校と比べて、大学生の指導の難しさはありますか?

 学生最後のカテゴリーが大学。そこまでプレーするのは限られた選手になるのだから、技術だけでなく考え方も自分なりのこだわり、理論があります。ある程度のことは尊重するし、グラウンド外のことは選手に任せています。高校の頃より規制は少なく、誘惑も多いなかで自分を失うようでは、それまでの選手だと思っています。自分をコントロールできない選手は大学では通用しません。

 

2017年に日本文理大学サッカー部の監督となった