オオイタのオリンピアン② 小笠原順子(シドニーオリンピック・競泳)

2020/05/05
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 高校卒業後の進路も大学も自分で調べ、選んだ。「4年前と同じことをしていてもオリンピックの出場は難しいと思った」と、練習環境を変え、一人暮らしをはじめた。最初の一年は環境の変化に戸惑い、結果も出なかった。中学1年の頃から選ばれ続けた日本代表から外れる挫折も味わったが、矢印を自分に向けた。「全ては自分の責任。課題を見つけ、足りないことを突き詰めた。レースの戦略も自分で考え、やれることは全てやった」と徐々に調子を上げ、大学2年のオリンピック選考会では4年前の雪辱を見事に晴らし、シドニーの出場権を得た。しかし、不運が襲ったのはオリンピック直前のこと。腰を痛め、寝たきりの状態が続いた。情報を聞きつけたトライアスロンチームのドクターをはじめ、多くの人が競技の垣根を越えて治療に尽力。100㍍は棄権を余儀なくされたが200㍍に出場し、16位で終えた。

 

 小笠原さんは今でもそうだが、「オリンピックに出たというのは肩書きのひとつでしかない」と自らオリンピアンであることを明かさない。オリンピックを終えてから卒業するまで水泳を続けたが未練はなかった。「やり切ったという思いと、これから先の人生の方が長いという気持ちが強かった」と、周囲の学生と同じように就職活動をして、大手飲料水メーカーに入社した。「価値観が広がった。全てが新鮮で、学ぶ楽しさを知った」と仕事にのめり込み、社会価値と企業価値を両立させるCSV活動によるブランド戦略や、イベントの企画運営を担当した。充実した日々を送ったが、子どもの成長とともに田舎への移住を考えるようになり、第3のステージに突入する。今は竹田に居を構え、起業し、地域活性化や子育て支援に関わる活動を勢力的に続けている。今後の目標は馬セラピーを取り入れた児童発達支援や放課後デイサービス、映画制作など幅広い。オリンピアンというよりビジネスウーマン。頂いた名刺に、もちろんオリンピアンの肩書きはなかった。

 

競技引退後も輝きは絶えない

 

 

(柚野真也)

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