トリニータの歴史を彩った選手たちの今② 西野晃平(日本文理大学サッカー部監督)

2020/04/07
  • 大分トリニータ

 1994年4月の始動から四半世紀余り。大分トリニータの歴史をひも解くと、「最短JFL昇格」、「最終戦の悲劇」、「J1昇格」、「万年残留争い」、「ナビスコカップ優勝」、「経営危機」、「J2・J3降格」、「2段階昇格」など、いくつものキーワードが浮かんでくる。その光と影のなかで歴史を彩った個性豊かな選手たち。彼らの“今”を追った。第2回は2005年に大卒ルーキーとして加入した西野晃平。在籍が1年だけだったが、引退後は日本文理大学の監督として大分のサッカー向上のために尽力している。

 

対抗できる武器を磨いた現役時代

 

Q:大卒ルーキーとして2005年に大分トリニータに加入しましたが、当時のチームや印象に残っている試合はありますか?

 今思えばそうそうたるメンバーだったなと思います。同期には同じ大卒の深谷(友基)、高卒組では西川周作(浦和)、梅崎司(湘南)らがいました。同じポジションのFWには(高松)大樹さんやマグノアウベス、(吉田)孝行さん、シーズン途中には(山崎)雅人さんが入ってきて、ガムシャラに練習して、アピールするしかなかった。自分は1年しか大分に在籍していませんが、デビュー戦の(7節)神戸戦でプロ初ゴールを決めた試合は思い出深いです。

 

Q:当時は個性的な選手が多かったなかで、比較的早い時期に試合に出て結果を出しました。ファーストシュートが決勝点になった派手なデビューでしたね。

 1点リードした試合終盤に出場して、逃げ切るために前線から守備をしていたのですが同点にされて、何とかしなければという気持ちだけでボールを追い回した。中盤でボールを受けてそのままドリブルで持ち込んでシュート。観客のワーッという大歓声はこれまで決めたどのゴールとも比べものにならないぐらいうれしかったです。

 ポジション争いはし烈でした。大樹さんは体が強く、ポストプレーもシュートもうまく万能型の選手。自分にとって大きな壁でした。唯一対抗できるのは当たりの強さとヘディングで、他に武器を増やすより自分の個性を伸ばすことに力を入れました。そこを評価されて起用されたんだと思います。

 

Q:大分を離れJ2の水戸で3年、岡山で2年プレーし、コンスタントに得点を挙げていました。

 レベルの高い大分で1年間プレーしたことで、J2では自分ができるプレーが多かったと思います。8、9点は取れたのですが最後まで2桁得点できなかったのは悔しいです。筋肉系のけがが多く、1年通してプレーできませんでした。プレースタイルがアグレッシブだったし、無理の利く選手として認識されていたので多少のけがでは休まなかった。プロでの6年間は自分のサッカー人生において貴重な経験をさせてもらいました。

 

デビュー戦で初ゴールを決めた西野晃平

 

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